『孫子』で読み解く、真田昌幸と幸村
信玄の弟子たちの争い――徳川家康と真田幸村!!
この真田昌幸は弟子もなにも、武田信玄の家臣そのものなのです。
なにしろ初陣が「永禄四年川中島合戦」ではなかったかという説もあるぐら
いで、「武田二十四将」の一人でもあるのです。
信玄に奥近習(おくきんじゅう)として従えたとき、信玄は昌幸の才能を見抜きかわいがったと言われています。昌幸は権謀術数に加えて戦術の達人であり、中でも籠城をさせれば楠木正成と並んで日本史上屈指の名将です。その昌幸から籠城の才能を受け継いだのが真田幸村です。
慶長二十年(一六一五)五月七日、「大坂夏の陣」のクライマックスは家康と幸村の死闘ですが、それは別個な形で信玄を継承した弟子たちの争いでもあったのです。政略の後継者である家康は、大坂城の堀を埋めてしまい裸城にした上で、最後の詰めとして戦闘を開始しました。『孫子』的な側面を強く受け継いだ家康らしいやり方です。
一方、信玄の火力についての認識の正しさを再確認させてくれたのが真田幸村です。信玄同様に、幸村も、鉄砲の利点はもちろん心得ていて、「大坂冬の陣」での出城・真田丸の攻防では、鉄砲を大いに活用しています。
信玄が旭(あさひ)山城に鉄砲を大量に入れたことは信玄が鉄砲の有用性を認めていたことを示唆します。
しかし、その限界も知っていたのです。無敵とうたわれた武田軍か敗れた「長篠合戦」があまりにも印象的であったために、多くの武将が大量に鉄砲を装備するようになります。